先日、友人と屋久島に旅行しました。
2日目に、かの有名な縄文杉までトレッキング。
屋久島の真ん中にある縄文杉までは、登山口から歩いて平均10時間かかります。
その日は夜明け前から大雨&強風でした。
悪天候は大きな危険を伴いますが、徐々に回復するという予報だったので断行。
行きに5時間、帰りに4時間。
雨に打たれながら、ただひたすら友と歩き続けた中で、哲学的に悟ったことがあったのでまとめます。
レールの上より道なき道を歩く方が楽しい
縄文杉へのルートはいくつかあるのですが、私達が行ったのは片道11km、往復22kmのルートでした。
その22kmのうち、16kmはトロッコ道で、レールの間に敷かれた木の板の上を歩きます。
こんな道が延々と続きます。
平坦な道で、障害物もないので歩きやすいのですが、本当に長すぎて今どのくらい来ているのか分からなくなります。
暇なので、脳内にどうでもいいような疑問や考えが泡沫のように浮かんでは消えていきます。
しかし、ボーッと歩いていると濡れた木の板上で滑ります。2回ほどヒヤッとしました。
このトロッコ道いつまで続くんだ…と呆れかけた頃、突然木の板が途切れました。
この道が終わったら、縄文杉までの残り3kmは山道です。
こんな感じ。
この自然の石や木の上を辿っていくような獣道が面白いのなんの。
踏む位置を間違えれば大怪我につながるので、必然的に目の前の道らしき跡に集中します。
足元を見過ぎて変なルートで登ってしまったり、逆に遠くを確認した途端、水たまりに突っ込んだり。
踏んだり蹴ったりでしたが、先の決まっている平らなトロッコ道より何倍も楽しく、歩きがいがありました。
人の生き方もしばしば道に例えられますが、こんな人生の進み方もありだなと、ふと思ったのを覚えています。
辛い時は一人で抱え込まず、友達を頼る
道なき道を行くのも楽しかったのですが、次第に朝6:30からロクな休憩も取らず歩き続けた反動がやってきます。
(常識ある皆さんはちゃんと休みながら歩きましょう)
一歩を踏み出す足が重く、段差を登るのもやっと。中・高6年間運動部でバリバリやってきた矜持が打ち砕かれました。
そんな時に心強かったのが、一緒に歩いていた友達の存在です。
彼女は中・高ソフトテニス一筋で、関東大会の経験あり。県大会止まりの卓球部員とは違います(バリバリの定義とは)。
気心の知れた仲なので、なかなか縄文杉まで着かない愚痴と弱音を言いまくりました。笑
私「さっきすれ違った人、あとちょっとって言ってたのに全然ちょっとじゃない!きつすぎる…」
友「あと2kmとか定量的なのがほしいよね(笑)
まあでもそれだけぶつくさ言えてるってことはまだ元気ってことじゃん」
私「確かに。ほんとにきつかったら無言になるわ(笑)」
こんな感じの会話を繰り返しながら進んでいきました。
もし自分一人だったら、絶対に縄文杉までたどり着くことはできなかったでしょう。
しんどい時に友達を頼る大切さを学び、また、友達が苦しい思いをしているときは、今度は自分が力になりたいとも思いました。
ゆっくりでも前に進み続ければ、いずれゴールに辿り着く
しとしとと降る屋久島の雨の中、次第に音を上げ始めた右膝をなだめながら歩き続けます。
ガイドさんなしの個人で歩いていたので、あとどのくらいで縄文杉なのか検討がつきません。
終わりがみえない恐ろしさとでもいいましょうか。
「シジフォスの岩」を思い出したくらいです。
シーシュポス - Wikipedia
道行くすがら、どこかの神社のご神木レベルの屋久杉がたくさんあるのですが、私は何度か
「もうこれ縄文杉でよくない?」
と冗談半分本音半分で言ってました。縄文杉、ごめん。
そのくらい長かったのですが、たどり着きました。11:30AM。
放心状態で眺めたその巨木は……以下省略(感想は人によって異なるので、興味のある方はぜひご自身の目で、身体で感じてみてください)。
辛くても、ゆっくりでも、歩いていればいつかはゴールに着く。
当たり前のことを全身で体感しました。
全身で体感したから、忘れなくなりました。
まとめ
縄文杉登山の記憶は、縄文杉を見たときの印象強さももちろんありますが、その往復路もとても心に残っています。
普通に暮らしている人ならば、一日に9時間、4万歩歩くことはめったにないでしょう。
友達とも話したのですが、もし自分に子供ができたら、縄文杉登山を若いうちにぜひ経験してみてほしいなと思いました。
最後に、帰り道にて木々の間から見えた、雨上がりの屋久島の空を。